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11月2日

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トルコの首都アンカラ出身のピアニスト、ファジル・サイのコンサートに行ってきました。

演奏は聞いたことがありませんでしたが、 バッハのCDが“奇才”というキャッチコピーと奇人風のポーズをとったジャケット写真で売り出されていた

記憶があり、良くも悪くもエキセントリックな演奏をするピアニストなんだろう、と、勝手に先入観を持っていました。

 

それでもコンサートに足を運んだのは、いつも通り、プログラムにベートーヴェンのピアノソナタ32番が含まれていたからです。

感想は、素晴らしかったです。クラシックのみならず、ジャズや民族音楽等にも造詣の深いことを感じさせる、型にはまらないアーティストと思いました。

いわゆる“正統な演奏”ではありませんでしたが、ピアノを様々な音色に響かせる表現力の豊かさは、素人目にも卓越した演奏技巧の持ち主と感じ、

比較できるクラシックの演奏家をあげるとすれば、チェロのマリオ・ブルネロのスタンスに近いと思いました。

 

私はベートヴェンの後期ピアノソナタのうち、楽曲の完成度ということでは31番が最高だと思います。ある意味、誰の演奏でも素晴らしくなります。

それに比べ32番は繰り返しが多いこともあって、ただ楽譜をなぞるだけでは退屈な音楽になりかねない危険があり、

ピアニストが何らかのニュアンスを足すことで素晴らしく生まれ変わる不思議な曲だと感じます。

それゆえピアニストによって曲の印象がずいぶん異なり、聴き比べをすることが楽しい曲になっている、と思うのです。

 

前置きが長くなってしまいましたが、ファジル・サイの32番は「ベートーヴェン作曲、ファジル・サイ編曲」とでも言った方がいいのでは、と

思うような演奏でしたが、200人以上の演奏を聴いてきた私の耳にもこの曲から新たなる美しが感じられ、素晴らしかったです。

H,J,リムの演奏を聴いたときには、ピアニストの勝手な思い込みによるニュアンスの付加について否定的な思いも持ちましたが、

“楽譜通りに弾くべき”という言葉が一人歩きして演奏家をガンジガラメにすべきではなく、要は調理の“質”が問われるのだと思いました。

楽曲、という素材をどう料理するかが問題で、まずい料理が出来れば余計なことをして素材をダメにした、という評価はやむを得ず、

しかし、美味しい料理にできたならば、調理人は素材の魅力を引き出した、という賛辞が得られて当然、と思ったのです。

 

〜演奏会後の感想メモより〜

「あれほど官能的な第一楽章は初めて聴いた。第一楽章を地獄、第2楽章を天国という解釈から第一楽章でフォルテを叩きこむ演奏が多いが、

ファジル・サイはこの楽章にも美しく響く魅力があることを引き出さずにはいられないのだろう。作曲家でもある性質からして。

ピアノの演奏スタイルはかなり特異で、演奏中、鍵盤を弾く動作以外の手の動きがある。まるでピアノの弦の上で発生した音を導こうと

するかのようなフリを頻繁にする。しかしそれは「奇才」と宣伝されていたような特異さではなく、

サイにとっては魅力的な音楽を奏でるために不可欠な要素として自然な動作に感じられ、

妙なパフォーマンス屋の演技的動作にありがちな厭らしさを感じることはなかった。」

 

ファジル・サイによる第2楽章の魅力を言葉で語るのは難しいです。言えるのは前半の変奏曲の退屈になりがちな繰り返し部分にも

それぞれ魅力的なニュアンスを加えて様々な表情を与えて聴かせてくれました。そうしたことが曲全体に言えました。

私にはそれがオリジナルの良さを破壊するような悪性のものではなく、この曲に新たな魅力・可能性を引き出した演奏だと感じました。

「どういう風に?」という点について、私の言葉では表現できませんので、発売の遅れている32番を含むCDを待ちたいと思います。

 

それから、アンコールが素晴らしかったことにも一言書いておきたいです。

サイ自身の作曲・編曲した「SES」「DUSERIM」「パガニーニジャズ」の3曲でしたが、クラシックとジャズとポップスの良いとこ取りしたような

聴き易くて深みのある曲、リズムが複雑でのびのびとして楽しませてくれる質の高い即興的演奏で、

純粋なクラシック畑からは決して育たないような素晴らしいアーティストであることを感じさせてくれました。